山鹿素行の思想






[素行関連文献]



最新動向

赤穂城枡形の素行助言説
 2002年5月30日、赤穂市教育委員会は、赤穂城跡二の丸門の発掘調査で、城の防御施設である「枡形」の基礎となる二十数個の「根石」を確認したと発表した。同教委は、「築城時に素行が枡形の設計の変更を助言・指示した」という説の信憑性が高まった、としている。


素行の士道

狩野永真作と伝えられる山鹿素行画像
 独自の武士道論で知られる山鹿素行(1622〜1685年)は、赤穂に住んだ10年間、藩主の浅野内匠頭や、大石内蔵助ら四十七士を薫陶した。また素行の思想は、吉田松陰や乃木希典の生き様に体現され、脈々と受け継がれ、日本的道義を支えてきた。
 道義外交を唱えた興亜論者の思想と行動の中にも、素行の思想的影響ははっきり見られる。例えば、興亜論者の田中逸平もまた、素行と乃木に傾倒し、その精神の継承者、田崎仁義(→関連文献)について次のように書いている。
 「其學統と其精神を紹く者に畏友田崎仁義博士の西陲に健在なるを懷ふ」(「靈犀書屋雜話」(1))。また、田崎の『皇道及王道』を「混沌たる思想界の明星と謂ふべきなり」と絶贊している(「半月雜記」(12))。
 だからこそ、田中は、次のように日本の軍人に高い道義を要求していた。
 「せめて道を守るの任は之を帝國軍人に望むや切なり」、「武の一字は干戈を止むるを意味し、武即平和こそ皇國の道なり、武士道の根底なり」。

 素行の思想は、武士道精神を理解する上で重要だっただけでなく、西洋列強の力に対する「正義を体現する武力」という観念を発展させる上で有効だったかに見える。
 特に、素行の『中朝事実』は、正義を体現する我が国の誇りと使命感を掻き立てたであろう。彼はまた『配所残筆』(1675年)で次のように明確に書いている。
 「然ば勇知仁之三は聖人之三徳也、此三徳一つもかけては聖人之道にあらず。今此三徳を以て、本朝と異朝とを、一々其しるしを立て校量せしむるに、本朝はるかにまされり。誠にまさしく中国といふべき所分明なり」
 佐佐木杜太郎は次のように述べている。
 「素行の学体系の特徴は、儒教と国学・国史と専門の甲州流兵学とを融合して、士の職分の自覚(人間即人生的自覚)を明かにし、世に独自の山鹿流兵学と称される日本的勤皇武士道学を提唱し、樹立したところにある」(佐佐木杜太郎「山鹿素行の日本学と神道の基盤」45頁)。
 素行は、まず『武教小学』や『山鹿語類』の「士道」篇において、独自の武士道論を展開した。
 素行は、戦国の終わりとともに存在理由を失った武士に新たな存在理由を与えた。農民、職人、商人三民の上にあるにもかかわらが、直接的な生産に従事しない武士の存在はどこにあるのか。素行は、武士は「正しい人の道」を実践し、三民の平安と生命を守る存在になることだと説いた。
 『武教小学』では、次のように武士の道徳を厳しく説いている。
 「凡そ、士の言語正しからざれば、その行い必ずみだる。柔弱の言、鄙劣の語もっとも慎むべし」
 「悪衣悪食を払じ、居の安きを求むるは志士にあらず」

『中朝事実』

 独自の武士道論を展開しただけでなく、国学に基づいて、素行は道義国家・日本の誇りを説いた。それが『中朝事実』である。「中朝」とは世界の中心の王朝の意味であり、日本を指している。このタイトルに明確に示されている通り、「聖人の教えが実現している」日本という考えは素行が終に行き着いた結論であった。
 「孔子の教えを聖教とし、これを中心に己れを省み、さらに国を省みるとき、その聖教が厳とした事実としてこの世の実現しているのは、聖教を生んだ漢民族の国ではなく」て、気が付いてみれば、それはまさしくわが国なのであったということへの、深い強い感動・感激によって得られたものが、この『中朝事実』である」(山鹿素行著、新田大作編著『中朝事実』中朝事実刊行会、1985年、13頁)。
 それを確信したときの気持ちを素行は、「五十年の夢、一ときに覚め申し候」と述べている。  ただし、『中朝事実』は単純な日本優越論として理解されるべきではなかろう。そこには、完全な道義国家たりたいという願いが込められているように見える。
 素行は、17歳の冬に両部神道の秘伝を伝授され、さらに壮年期に、天孫降臨の際に、天児屋根命とともに功労のあった忌部太玉命の後裔で、忌部流根本宗源神道を提唱した国学者、広田坦斎(坦斎には、忌部流の伝『神代巻神亀抄』『朱注の神代巻』『忌部流三種大祓』等の著書がある)から神道の奥義を残らず授けられた。
 この間、素行は極めて広範な知識を吸収しつつも、満たされないものを感じていた。だが、ついに寛文の初め(1660年代初め)になって、素行は後世の書物ではなく、直接、周公、孔子の書を読み、それを手本として学問の方法を正そうと思った。そして、聖人の書ばかりを日夜読み考えた結果、はじめて聖学の道筋が明らかに得心されたのである(『配所残筆』)。素行は真理の把握に近づいたのであろうか。
 いずれにせよ、素行の主眼は、日本が神国であることを言い立てるのではなく、日本が「天地の至誠」、すなわち宇宙の真理に合致した道義が貫徹される国であることを願うことにあったのではなかろうか。
 素行は「天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、生々無息造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、人民をして是れによらしむるゆゑん也」とも書いている(広瀬豊編『山鹿素行全集思想篇』第12巻(謫居童問、謫居随筆、配所残筆)、岩波書店、1940〜1942年、192頁、劉 長輝「『古学思想』に見られる異文化交流論――山鹿素行の学説を中心として――」)。

 さて、『中朝事実』は上皇統と下皇統から成り、それぞれ章構成は次のようになっている。

上皇統
 天先章(天地自然の生成について論ずる)
 中国章(風土の状況について論ずる)
 皇統章(皇統の万世一系なることについて論ずる)
 神器章(三種の神器について論ずる)
 神教章(教学の本源について論ずる)
 神治章(政治体制の基本について論ずる)
 神知章(人間を知ることの重要性について論ずる)
素行自筆本『中朝事実』(平戸山鹿家蔵)

下皇統
 聖政章(政治教化の基本について論ずる)
 礼儀章(礼儀の在り方について論ずる)
 賞罰章(賞罰の公正平明について論ずる)
 武徳章(武の意義について論ずる)
 祭祀章(祭祀の誠心について論ずる)
 化功章(徳化の功について論ずる)(新田編著『中朝事実』12〜13頁)。

 神治章では、皇祖天照大神のこの国を統治しようとされたときのみこころについて説いている。天地の恵みは至誠そのものであって君子もまた至誠そのものであり、自ら戒め、徳に向って進むとき、万民すべて安らけく、天下万国すべて平穏に無事なる状態になる。素行は、これこそが「天壌無窮」の神勅の意味であると説く(新田編著『中朝事実』76頁)。
 『中朝事実』において、素行の武士道論は建国の神話によって補強される。武徳章で、素行は神代紀の東征の記事に基づいて、威武の神髄を論じているのである。ここでは、道義に裏付けられた武が強調されている。
 「謹みて按ずるに、五行に金あり、七情に怒あり、陰陽相対し、好悪相並ぶ。是れ乃ち武の用また大ならずや。然れどもこれを用ふるにその道を以てせざるときは、則ち害人物に及びて而して終に自ら焼く」(新田編著『中朝事実』187頁)。

 素行の思想を継承した代表的人物が吉田松陰と乃木希典である。
 松陰は5歳の時に、山鹿流兵学師範・吉田家に養子となっている。すでに11歳にして、藩主の前で素行の兵学をよどみなく講義したという。
 一方、乃木は少年期に松下村塾の創始者・玉木文之進によって、『中朝事実』の精神を吹きこまれたという。乃木は『中朝事実』を愛読し、写本しては人に与えたという。司馬遼太郎『殉死』によると、乃木は殉死の2日前の大正元年9月11日、午前7時に参内して皇太子と淳宮、光宮の3人がそろうのを待って、人ばらいをした。そして、ふろしき包みから『中朝事実』を取り出し、誠心誠意の講義を行った。
 日本的道義を支える素行の思想の価値は、いまなお失われてはいない。


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